音楽コラム

【レビュー】岡本太郎『今日の芸術』は令和の時代も読み継がれるアーティスト必読の一冊 – 『つくる』を仕事にするすべての人へ

岡本太郎って何者だ

みなさんは岡本太郎という人物を知っているでしょうか。

私は平成元年生まれなので、物心ついた頃に岡本太郎は亡くなっていました。

ただなんとなく大阪万博というものが昔あって、そこで太陽の塔という謎の建築物を作った人、渋谷駅のでっかい壁画を描いた人、芸術は爆発だという言葉を残した人という印象しかなく、彼が世間に及ぼした影響なんかこれっぽっちも知りません。

しかし岡本太郎の本を読む機会があり、いくつか彼の本を読み進めていくうちに、

「この時代に18歳でパリ大学に留学し、芸術を学んでいたなんていったい何者なんだ」

「ずいぶん前に亡くなった人なのになんて現代的な考えを持っていたんだ」

と興味を持つようになり、そして何より「岡本太郎の芸術に関する考え方は、すべてのアーティストが知るべき素晴らしい知恵だ」と感動し、彼のファンになってしまいました。

実際この本は1954年に出版されているのにも関わらず、昔に出版された本だとは思えないような先進的な考え方がうかがい知れます。

そんな岡本太郎の素晴らしい一冊『今日の芸術』を本日はご紹介したいと思います。

 岡本太郎の言葉は本質を捉える

花は美しい、富士山は結構だということは、常識として、子どものころから、ちゃんとつぎこまれています。だから花というと、ろくすっぽ見もしないで、「きれいだ」と、合言葉のように言ってしまったりします。女の子の花模様の着物なども、そうです。ほんとうの形の美しさも、色の調和もそっちのけにして、ただ「花」だからきれいなものと思いこんで、身につけているにすぎません。

「きれいだ」という言葉を発する時、その言葉はその人の過去の経験に基づいて発せられることが多い。例えば花はきれいだという一般的な常識によって、他人や社会から感性が植えつけられているというのです。

確かに日本人なら富士山はきれいだとか梅の花はきれいだと感じるでしょう。そういった感性は日本で育っていない人には分からない、社会に植えつけられた価値観なのかもしれません。

純粋に直観しなければならない芸術鑑賞には、まず、このような不要な垢をとりのぞいてかかることが先決問題です。聞いたり、教わったりするんじゃなく、自分自身が発見する。自分の問題としてです。そうすれば自然に、自分自身で、ジカに芸術にぶつかることができるのです。

そしてこの植えつけられた感性や価値観こそが、芸術を難しいものとしワケがわからないものと一般の人を遠ざけてしまう原因なのかもしれません。

よく、絵を見ていて、「いいわね。あたしにはわからないけれど」と言う人がいます。小説や映画についてはあまりこういうことは言いませんが、絵画や音楽の場合、よく聞く言葉です。もっとも、謙虚に言うときもあるし、逆にテライ、裏がえしの虚栄でそんなことを言う人もありますが。どっちにしても無意味な言葉です。「いい」と思ったとき、その人にとって、そう思った分量だけ、わかったわけです。あなたはなにもそれ以外に、わからない分など心配することはありません。いつでも自分自身で率直に見るということが第一の条件です。そして何かを発見すれば、それはまず、あなたにとって価値なのです。

そう、価値とは他人や社会が決めるものではなく自分の心が決めるものです。「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」と相田みつをは言っていますが、まさに押し付けられた価値観を絶対的なものと捉え、自分なりの幸せの尺度でものを測れない現代の人たちこそが不幸のループに陥っているんだと思います。この言葉はアーティストだけでなく現代を生きる私たちがもっとも知るべき言葉でしょう。



うまい絵を描こうとするまちがい

今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。

この言葉は岡本太郎の言葉の中で「芸術は爆発だ」に次ぐくらい有名な言葉なのではないでしょうか。この言葉は岡本太郎の「芸術は絶対に新しくなければならない」という考えが根底にあります。

ほんとうの芸術は、なぜここちよくないのでしょうか。さきほどからお話ししているように、すぐれた芸術には、飛躍的な創造があります。時代の常識にさからって、まったく独自のものを、そこに生み出しているわけです。そういうものは、かならず見るひとに一種の緊張を強要します。なぜかと言いますと、見るひとは自分のもちあわせの教養、つまり絵にたいする既成の知識だけでは、どうしてもそれを理解し判断することができないからです。

上手いだとかきれいだとかいう言葉は、その人の持ち合わせの知識の範囲内で起こった感情に対して発せられる言葉であり、つまり過去に基づいて発せられているわけです。

芸術は絶対に新しくなければならないとすれば、過去の経験からは測れないような真新しさを兼ね備えていないものは芸術ではないわけです。

けっしてうまく描こうと考えてはなりません。なぜでしょう。うまいということはかならず「何かにたいして」であり、したがって、それにひっかかることです。すでにお話ししたように、芸術形式に絶対的な基準というものはありません。うまく描くということは、よく考えてみると、基準を求めていることです。かならずなんらかのまね になるのです。だからけっして、芸術の絶対条件である、のびのびとした自由感は生まれてきません。それなら描く意味はないのです。

岡本太郎の言葉たち

 きれいさというものは、自分の精神で発見するものではなく、その時代の典型、約束ごとによってきめられた型だからです。ハリウッド型の美人というものがはやってくると、日本の女の子まで、みんなハリウッド型になってしまう。「あの 女 鼻ペチャでボーッとした顔してるけど、 天平時代(七一〇―七九四年)に生まれてれば、きっとたいへんな美人だったわよ」ということにもなるのです。きれいなファッションといっても、ほんとうにその衣装の形や色が美しいのではなくて、こういうのがきれいだという、そのときの約束にはまったものだから、きれいに見えるのです。つまり、きれいさというのは本質ではなく、なにかに付随してあるもの、型だけであるものです。

古今の名画傑作が数多く集められているパリのルーヴル博物館あたりに行って、見わたすと、ただちにピンとくる厳粛な事実なのですが、いつの時代でも、ほんとうにすぐれたものは、けっして「うまい」という作品ではありません。むしろ、技術的には 巧みさが見えない、破れたところのあるような作品のほうが、ジカに、純粋に心を打ってくるものを持っています。美術史をつらぬいて残されているものも、けっきょく、そういう作品です。

絵を描きながら、じつは音楽をやっているのかもしれない。音楽を聞きながら、じつはあなたは絵筆こそとっていないけれども、絵画的イメージを心に描いているのかもしれない。つまり、そういう絶対的な創造の意志、感動が問題です。

でたらめに描くということになると、目の前に対象物もなく、八の字のような寄りかかることのできる符丁もありません。どこからも借りてこないで、まったく今までなかった新しいものを、無から作りあげるという営みになるのです。  ほんとうの自分の力だけで創造する、つまり、できあいのものにたよるのではなく、引き出してこなければならないものは、じつは、自分自身の精神そのものなのです。そこが芸術の根本なのですが、そういうもっとも本質的なことになると、とたんにハタと行きづまってしまって、絵が描けなくなるというのはどういうことなのでしょう。 「自由に描いてごらん」「かってに描いてみろ」と言われて、しかもそのほうが、はるかにむずかしくて、描けなくなる。これは、いかに「自由」にたいして自信がないかを示すものです。

似ても似つかぬように下手に描いてやろうというほどの、 ふてぶてしい心がまえを持てばよいのです。

きれいなもの、上手なものは、見習い、おぼえることができるが、人間精神の根元からふきあがる感動は、習い、おぼえるものではありません。

「伝統」はやはり芸術と同じく、つねに過去を否定することによって強く生気をみなぎらしてゆくものであって、伝統を単に過去のものとして考え、自分に責任をとらず、それによりかかることは、伝統そのものを骨董化して殺してしまうことです。

本書で、岡本太郎はこんなことも語っています。

新しいということは、何か

・流行とは何か

・新しいといといわれればもう新しくない

・うまい絵を描こうとするまちがい

・デタラメがなぜ描けないか

・とにかく描く

芸術家として一時代を築いた岡本太郎の芸術に向き合う態度を語り尽くした本書は、芸術家や絵描きに限らず、すべてのクリエイターにインスピレーションを与える一冊になるでしょう。