「Northward Acoustics」というスタジオ施工会社をご存知でしょうか?
名前は聞いたことがなくても、このガラス張りのスタジオを、動画やブログなどで一度は見かけたことがあるかもしれません。
この会社は、世界中の有名なマスタリングスタジオやマスタリングエンジニアのスタジオを手がける、ベルギーを拠点とするハイエンド音響工学・スタジオ設計の会社です。
以前、Zino Mikoreyというエンジニアにマスタリングを依頼したことがあるのですが、彼のスタジオもNorthward Acousticsが手掛けており、その頃からこの独特なスタジオデザインが気になっていました。
- ガラス張りのスタジオ
- 独特なスタジオラックデザイン
- ATCの壁埋め込みスピーカー
という、一度見たら頭に焼き付いてしまうようなスタジオデザインですね。
「え、ガラスって音が悪くなるんじゃないの?」とはじめは思っていたのですが、調べてみると、そこらへんも緻密に設計されて作られているようです。
今回は、このNorthward Acousticsが手がけるスタジオ設計の秘密、どうして世界の名だたるマスタリングスタジオに採用されているのか、といったことを深掘りしてきたいと思います。
Northward Acousticsとは?
Northward Acoustics(ノースワード・アコースティックス)は、2000年代初頭(2001~2005年頃)にトーマス・ジュアンジャン(Thomas Jouanjean)によって創設されました。
この会社、なんと、世界的に有名なSterling Soundのマスタリングスタジオも手掛けています。
Sterling Soundといえば、音楽業界で最も尊敬される一流マスタリングスタジオで、数々のヒット曲やグラミー賞受賞作品を手がけてきた歴史を持ち、1969年の創業以来、常に最高品質の音響処理で知られています。ビートルズからビリー・アイリッシュまで、様々なジャンルを代表するアーティストの作品が、ここで最終調整されました。
Northward Acousticsには、音響・振動エンジニアやデザイナーなど複数の専門家が在籍しており、スタッフ自身もミュージシャン/エンジニアとしてスタジオ運用の実体験を持つ点も特徴です。こうしたバックグラウンドにより、Northwardは技術的知見と現場感覚の双方を備えたスタジオ設計を行っています。
Northward Acousticsの設計コンセプト
Front-To-Back (FTB) コンセプト
Northward Acousticsの最大の特徴は、この「Front-To-Back」コンセプトにあります。一言でいうと「スピーカーには完璧な音響環境、人間には心地よい空間」を同時に実現する設計思想です。
通常、スタジオ設計では「完全に音響処理された無響室のような空間」と「人間が快適に感じる自然な空間」は相反するものでした。無響室に近づけると人は不自然さを感じ、自然な響きを残すとスピーカーの音が正確に伝わりません。スタジオに1度でも訪れたことがある人ならわかると思いますが、スタジオ内はかなりの静寂で、ずっといるとその不自然な環境に違和感を感じてしまい、決して快適な場所とは言えません。
ところが、FTBコンセプトはこの矛盾を見事に解決したのです。
具体的な仕組み
FTBの核心は、スピーカーからの音の道筋を完全にクリアに保つことにあります。スピーカーの音が壁や天井で反射して耳に届くと、音が濁ったり色付いて聞こえます。FTBでは、スピーカーから耳への「直接の道」以外からの音の反射を徹底的に排除します。その結果、CDやレコーディングの音がそのまま耳に届く状態を作り出します。
同時に、完全な無響室は人間にとって不快なものです。そこでFTBでは、人間が話したり動いたりする音(自己ノイズ)だけが適度に反射する仕掛けを施しています。例えば、エンジニアが喋った声は部屋で自然に反響するのに、スピーカーの音は反響せず直接耳に届くという不思議な空間を実現しています。
これを可能にするために、FTBでは「スピーカーから見える面」と「スピーカーから見えない面」を巧みに使い分けています。スピーカーから見える壁や天井は全て吸音処理を施し、スピーカーから見えない場所(例:リスナーの頭上の天井など)には反射・拡散素材を配置します。その結果として、同じ部屋なのに「スピーカーにとっては無響室」「人間にとっては自然な部屋」という二重の性質を持つ空間が生まれるのです。
従来の設計手法との違い
スタジオ設計の世界には、いくつかの主流な手法があります。Northward Acousticsの「Front-To-Back (FTB)」は、従来の方法と同じ目標である「音楽を正確に聴ける環境を作ること」を持ちながらも、アプローチが全く異なります。
最も広く使われてきた「LEDE(ライブエンド/デッドエンド)」という方法は、1970年代から普及しました。これは部屋を前後で分けて処理する方法です。スピーカー側には吸音材をたくさん使って音の反射を吸収する「デッド」な空間を作り、リスナー側の後ろには音を拡散させる素材を使い、適度に響かせる「ライブ」な空間を作ります。この方法では、スピーカーの音が最初にダイレクトに耳に届いた後、わずかな時間差で後ろの壁からの反射音が届きます。この遅れた反射(Haasキッカー)によって音に広がりを感じさせる狙いがあります。
Northwardの創設者トーマス・ジュアンジャンは、「後ろからの遅れた反射音は脳を混乱させるだけ」と考えました。そこでFTBでは、スピーカーからの音には一切反射を加えない(完全なダイレクト音のみ)設計を採用し、代わりに、人間自身が発する音(話し声や足音など)だけが自然に反響する設計としています。つまり、音楽はクリアに直接耳に届き、同時に人間は違和感のない自然な空間にいると感じられます。
FTBは、人間の心理や聴覚の仕組みまで考慮した、より洗練された設計手法なのです。
代表的な事例紹介
冒頭で紹介したドイツの名門スタジオ「Manmade Mastering」のスタジオ以外にも、Northward Acousticsが手掛けたスタジオは世界各地に存在し、一流のマスタリング・エンジニアやスタジオに採用されています。
Sterling Sound(米国)
米国を代表するマスタリングスタジオであるSterling Soundは、2018年前後にニューヨークからニュージャージー州エッジウォーターおよびテネシー州ナッシュビルへ拠点を移転した際、新スタジオ設計にNorthwardを起用しました。
Zino Mikorey Mastering(ドイツ)
僕も一度マスタリングをしてもらったことのある、ベルリンのZino Mikoreyのスタジオは、トーマス・ジュアンジャン氏によるFTBコンセプトに基づいて構築されています。ATCのSCM110 ASLスピーカーがガラスにフラッシュマウントされています。
Zino Mikorey氏は、ニルス・フラーム、パーセルズ、オーラヴル・アルナルズなどのアーティストの作品を手がけています。
Giles Martin(ビートルズ・プロデューサー George Martin の息子)
グラミー賞を受賞したエンジニア兼レコード プロデューサーの Giles Martinは、2019年にDolby Atmosスタジオの設計を委託しています。
ガラス内 ATC スピーカーと、サブウーファー (LCR SCM110 A SL/ 2×15 インチ サブ / SCM50 A SL サラウンド / SCM25 A VOG) だそうです。
なぜ世界中で支持されるのか?
Norhward Acousticsは、従来のマスタリング・ルーム設計思想「ノンエンバイロメント(無響環境)理念」や、LEDE思想などにあった弱点を解決する独自の思想が世界中でウケているのだと思います。
Sterling SoundのスタジオにもNorthwardが採用されているというのは、かなり説得力がありますね。
また、近年急増するDolby Atmos等の立体音響スタジオにも対応していて、HPを見てみると、2023年には日本の岩手県にあるDolby Atmosスタジオ依頼されたと書かれていました。とても気になりますが、依頼者であるYuki Takahashiさんは、検索しても出てこなかったです・・・何者なんでしょうか。
まとめ
マスタリングの世界は伝統的であまり変化がないのかと思っていましたが、意外とこういう新しい技術が出てきているんですね。
僕は最近ヘッドフォンでマスタリングをするようになってきたので、スピーカーシステムを整えるのは結構趣味の領域になってきているのですが、Norhward Acousticsの音は以前からずっと気になっているので、いつかドイツのスタジオにでも伺って、実際に立ち会いマスタリングのもと音を聴いてみたいなと思っています。
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました!